ひねくれ先生のブログ

30代公立小学校教員(算数が好き)が日々思うことを徒然なるままに書くブログ

ノーベル化学賞受賞の野依博士のインタビューから

この記事を読んで自分の考えを記す。
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問題は、学びが消極的な点。積極的に定説に対して疑問を投げ掛けたりすることがない。教科書などに書いてあったら、「ああ、それはそうですね」で済ませ、自分で考え「そうじゃないんじゃないか」と、工夫して挑戦しないのですね。

消極的な学びになってしまうのは、教師が与えすぎてきたから。「答えを出させよう」とするあまりに、丁寧に問題解決までの道のりを与えたり、ヒントを与えたり。「自分から生み出す」ことを子どもがする前に教師が喋っちゃう、これで学びに能動的になるわけがない。また、「できる」に価値を置かれてしまったために、反復練習を強制させられ、勉強することの価値を見失ってしまった。学ぶことは本来、楽しさに満ち溢れているはずなのに。「楽しさ」がないところには、積極性や創意工夫は生まれない。

 

今の大きな問題は、好奇心を持って自ら問う力、考える力、答える力。これらが落ちているということ。なぜそうなるのかというと、社会全体を覆う効率主義、成果主義のせい。しかも実は本当の成果を求めていない、形だけの評価制度は許せない。評価は本来、人や物の価値を高めるためにあるのですが、そうなっていない。

評価が目的になってしまっている現状。本来は目的を達成するための評価であるはずなのに。自分がどの程度、達成できているかをテストで分析し、そこから何をすればいいのかを考える。本来は、テストは現在地を知りそこからの道筋を考えるものなのに、テストがゴールになってしまっている。

 

最も心配なのは「問う力」がほとんどないこと。誰かに作ってもらった問題に答える習慣が染み付いている。幼い子供たちは好奇心を持つが、学校教育が疑いを持つことを許さないのではないか。発展につながるいい問題を作るのは、与えられた問題にいい答えを出すよりも、ずっと難しいのです。平凡な既成の問題に答えてもまったく意味を成さないはずで、なぜこんなことが分からないのか。

もはや問題解決能力は必要とされなくなってきている。なぜなら、答えを出すのはAIがしてくれるから。今、必要とされてきているのは「問題を見つける力」。「教師が問題を与え、子どもが答えを出す」ことの価値はどんどん薄まっている。答えを出そうとする過程に価値はあるけれど、答えを出すことに価値はほとんどない。疑問を出すことの価値は年々、高まっているように感じる。

 

「社会総がかり」で教育に取り組まないといけない。その意味で日本は“教育貧困国”なのです。学校だけに任せては駄目です。学校教育だけでなく、家庭、近所、地域、さらに産業界、あらゆるセクターの組織、あるいは人々が教育を支えるという気持ちにならないといけない。そして教える側自身も、そこから多くを学ぶ。

 予算という視点からも「教育最貧国」と言えよう。子どもは社会の宝である。未来を担う子どもたちに、時間もお金もかけなくてどうするんだ。学校だけに任せてきた現実がコロナで一層、浮き彫りになった。確かに学校批判はよく聞くけれど、「では学校以外で何ができるか考えましょう」の視点は少ないのかもしれない。

 

世界が多様性の尊重に向かう中で、日本はなぜ、画一性にこだわるのか。

それは、今までの教育が画一的だったから。画一的な教育からは画一的な国民しか生まれない。「揃えましょう」の文化からの脱却を願う。

 

学校の先生に全部任されてもね。「親の顔が見たい」という言葉がありますが、家庭でしつけのできていない子供たちを教育できませんよ。学校教育はもちろん大事で、教育の中核を成すものだと思いますが、あくまで教科が中心でしょう。現代、そして将来の社会を支える人をつくる、そして、その個人が幸せに生きるということを、社会全体で考えない限り駄目です。

授業のことだけ考えたい。授業のことを考えている時が一番、楽しい。

問題解決学習の問題点

現在の算数科では,問題解決学習が多く行われている.自治体によって呼び名が変わるものの,

①課題把握

②自力解決

③全体交流

④まとめ

のような流れが一般的である.「○○スタンダード 」のように,この形を推進している自治体もある.しかし,この形式の学習指導には多くの問題点があると私は考える.この形が綺麗に流れるほどに,授業に参加できない児童が増加し,算数が嫌いになり,主体的・対話的で深い授業からは遠ざかるのではないか.

 

①課題把握の問題点

・めあての押し付け(子どもの中に問いがない)

・課題を理解させたいがために,丁寧に説明しすぎて,子どもの心が離れていく

※いきなり「計算の仕方を考えよう」とか言われても,なんのことかさっぱり分からず,嫌になる.課題も興味をもてるものではなく,あぁまた嫌な時間が始まったと心が離れていく.

 

②自力解決

・そもそも自力解決した後に全体交流をする必要があるのか

・自力解決ができる問題を授業でする意味があるのか

・1分間考えても分からない問題を5分間考えさせられるのは,地獄の時間

・自力解決に挑めるだけの力が全員にない

・机間巡視をして,分からない子を見つけてはヒントを与えている等,もはや個別学習になっている

 

③全体交流

・発表の順番がパターン化され,教師の求める答えが発表されていく

・一部の勉強ができる人だけで話が進んでいく

・友だちの発言に興味がない

・今,なんの話をしているのか分からない

 

④まとめ

・まとめの押し付け

・「はかせどん」

・「楽しかったです.」などの何のためにしているのか分からないふりかえり

 

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職場の同僚から見る今日的な課題「揃えましょう文化」

 「職場の同僚から見る今日的な課題」というテーマを大学院の授業で頂いたので、それについて自分の考えを文章で示す。私が一番、課題だと思うのは「揃えましょう文化」である。

「学年で揃えましょう」などの画一的な方法に対しては非常に危機感を覚える。「学級通信を出すのはやめましょう」「掲示物はこれにしましょう」確かに、揃えてしまえば不満は出づらい。「隣のクラスは〇〇なのに…」という苦言を防げるだろう。この揃える文化には大きく2つの問題点があると思う。

 

1、違いを認められない子が育つ

 これだけ「個性が大事」と言われている時代に、教員が個性的でなくてどうするんだ、と思う。同じにしようとすればするほど、違いに敏感になり、受け入れられなくなる。「他所は他所、ウチはウチ」という言葉があるように、本来は違って当たり前なはずなのに。1組の担任と2組の担任は違う価値観を持っている。何を大事にしているかは違うのだから、違いが出て当たり前である。違いを認められない教員は、違いを認められない子どもを育ててしまう。

 

2、教員の能力が発揮されない

 それぞれの教員の能力値は違う。喋りが上手な人、文章が得意な人、ICTが得意な人、掲示物が得意な人、それぞれの得意分野は違うはずなのに、揃えてしまえば、それは発揮されない。このツイートは極端な例だとは思うが、揃える文化の先にはこんな未来しか見えない。

 能力は、発揮されなければ、どんどん衰えていく。力を失っていく。揃えるってことは工夫する余地がないってこと。衰退する未来しかない。そして、無個性で無能な教員集団が出来上がる。初任者はどの先輩から学べば良いのだろうか。

 

 確かに揃えることで、その場はしのげるのかもしれない。クレームも減るかもしれない。でも、そのことが未来にどんな影響を与えるのか、真剣に考えた方がいい。

 

 

 

学級経営で大切にしてきたこと

「学級経営で大切にしてきたこと」というテーマを大学院の授業でもらったので、自分の考えを文章で示す。

 私が最も大事にしていることは「自分の価値観を発信すること」である。これは、ほぼ学級崩壊に陥った私に尊敬する先輩から教えてもらった話である。

 曲がりなりにも、公立小学校教員という職業について飯を食えてるんだから、今までの人生であなたが大切にしてきたことは、間違ってないし、ある種、正しいんだ。今、あなたが大事にしていることには価値がある。「先生として」ではなく「あなた個人」として大事にしていること。その価値観は、他の人とは違うだろうし、それで良い。5年後、10年後に変わったって良い。今、あなたが大事にしていることを、そのまま子どもに伝えたら良い。 ただ、あなたの教え子が10年後にそれをどう捉えるかは、その子が決めること。あなたの価値観が全ての子にとって正しいわけじゃない「ひねくれ先生の言っていたことは正しかったな」でも「ひねくれ先生の言っていたことは違うと思う。だって…」も同様に価値がある。あなたの価値観を受けて、子ども自身が自分の価値観をつくっていけたのだから。だから、あなたが担当した1年間で、あなたの価値観を伝えたら良い。小学校の教員が毎年、変わることには大きな意味がある。次の年に担当する先生が、あなたと違う価値観を持っていたら、子どもにとって大きな価値があるじゃないか。

 みたいな話だった。その当時の私は、「先生」という枠に捉われていた。違和感を感じながらも、「先生だから」という理由でした実践もあった。「しなきゃいけない」に縛られていたとも言える。おそらく、子ども達も気がついていたのだろう。だから、私に対して不信感を持っていたのだと思う。「本当に良い」と思っていない、違和感を感じていることを伝えていたのだから。真摯でない大人は信用ならない。でも、「あなたはあなたで良い」というメッセージをもらって、かせが取れた。他の先生にどう思われてもいいや、自分は自分の大事にしていることを伝えていこう。不思議とそれから、子ども達との関係性がよくなって学級も安定するようになってきた。子ども達が私に好感を持っているのも分かった。「ひねくれ先生って変な先生だよね」と言われることも多々あったが、それはそれで私を認めてくれたのだろうと思う。

未来人のイラスト(男性)

 

生徒指導 私はこうしてます

 問題行動が起こった時の生徒指導の自分のやり方をまとめてみる。目的は、再発を防ぐこと。

 

①事実を確認

 兎にも角にも、これが最優先。何があったのかを聞く。時系列で整理すると良い。特になぜ問題行動を起こしたのかを聞く必要がある。その行動を起こしてしまった背景を大人は知らなければならない。「悪口を言われてムカついたから叩いてしまった。」のような理由が出てきたら、気持ちには共感できることは伝える。「叩いてしまったことは悪いけれど、ムカついたのは分かる。」罪を憎んで人を憎まず。行動は否定するけれども、感情は否定しない。

 また、聞いている際に、本人の口からもれる反省の気持ちに焦点を当てる。例えば、「叩いてしまった。」と言えば、「『しまった』ってことは悪いと思ってるの?」のように、反省していることを自覚させる。

 

②反省を促す

 反省しているのであれば、ここは省略。本人が悪いと思っていない場合、その行動を起こした結果を伝える。「あなたが暴力をふるった結果、周りの人はあなたのことをどう思うだろうか。これからもその行動をふるい続けたら、どう思うだろうか。」のように自分の行動を客観視させると効果がある。「叩かれた子の気持ちを考えなさい」は、通じないこともあるし、「悪口を言われた私の気持ちは…?」ともなるので、あまりおすすめはしない。「〇〇さんは痛かったと思うよ。」程度で良いのではないだろうか。ちなみに、なかなか反省できない場合は、「悪口を言われた」事が引っかかっている可能性がある。そちらに焦点を当てると、気持ちが落ち着いて自己を振り返るきっかけになることもある。「よし!謝ってもらおう」などと言ってみるのも効果的かもしれない。

 

③再発しないためにどうすれば良いかを一緒に考える。

 反省を促せたところで、「同じことをしない」という目標を共有する。その子自身が願う事が最も大事。この場面では、教員と当該児童との関係で話を進めるのが良い。「もし、暴力をふるうことで、あなたの周りから友達がいなくなるのは、私は嫌だ。」「大人になった時に殴りたい気持ちが抑えられずに叩いてしまって、警察に捕まるのは、私は嫌だ。」「だから、あなたには暴力を振るわない人間になって欲しい」みたいに「私は」というアイメッセージを伝えるのが良い。

 目標が共有できたところで、「同じような場面が起きた時に次はどうするか?」を問うてみる。「叩かない」という答えが出たら、その意志を認めつつ「叩く」の代替行動を考える。「悪口を言われた怒り」という感情をどんな行動に移すかである。例えば「それを言われるのは嫌だ」と直接相手に伝える。大人を頼る。友だちを頼る。という風に。

 

 

最後に

あくまでこれは一つのやり方ですし、私自身もこれを基本に臨機応変に変えています。あくまで大切なのは、その子の問題行動の再発防止です。子供の喧嘩のイラスト

 

正しさを追い求めることで失われるもの

 一時期、オリラジ中田さんのyoutube大学にどハマりしていた。

  もう、めちゃめちゃ面白い。歴史、経済、政治、宗教、時事問題、多分野に渡って自分の知らなかったことを教えてくれるのだから、ずっと流していた。知識を得るってのは人間の根源的な喜びなのかもしれない。しかも、面白おかしく伝えてくれるし分かりやすい。そう思って「すげーすげー」と一人で騒いでいたら、ネット上で批判する人が結構多いことにも気がついた。曰く、「正しくない」のだと。その説は否定されている、その情報は間違っている、メリットばかり行っているけどこんなデメリットもある…

 言い分は分かる。誤った情報を発信することは罪だ。というのも分かる。でも「正しさ」を求め過ぎたら「面白さ」は失われていくのではないだろうか。

 学校の授業も同じで、正しさばかりを優先したら、それは面白いのだろうか。教科書は正しいことがのっている(とされている)。でも、誰が好き好んで教科書を読むのか。教科書面白い!って言っている人もいるけれど、ごく一部だろう。正しさを追い求めれば追い求めるほど、面白さは失われていく。例えば、私は歴史の授業でこんな話をしている。

当時、最強だった邪馬台国と戦争した国に狗奴国があった。邪馬台国VS狗奴国。狗奴国の王の名は卑弥弓呼(ヒミココ)。つまり、「ヒミコVSヒミココ」っていう戦いがあったらしい。※諸説あり

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これは鉄板ネタで、子どもたちは絶対笑う。正しいかどうかの検証なんて私はしていない。でも、「歴史って面白いね」と思える入り口になるかもしれない。「正しさ」より「面白さ」を優先してしまう私はダメな教員だろうか?もちろん誤った情報を意図的に流して、情報操作をするのは違うと思うけれど。

 オンライン授業が始まる自治体があるという。動画配信や、zoomを使う所もあるだろう。教員の発信が保護者の目に晒される。その時にも、「正しさ」を求め過ぎると「面白さ」は失われていくだろう。何のためにオンライン授業をするのか、「正しい情報を発信すること」ではないはずだ。

オリジナルなんか要らない

 大学を卒業してすぐに大手塾に入社した。そこでの思い出話を一つ。入ってすぐに算数、数学の授業研修を受けた。同期の中には大学時代にアルバイトでバリバリ塾で授業をしていた猛者もおり、初めの時点で力量の差はかなりあったように思う。(私が一番下手だった)。

 授業研修は模擬授業をして、研修担当の方から評価してもらうという内容。評価と言っても、ほとんどがダメ出しだったが笑。でも研修担当の方は非常に魅力的で、今でも私の考え方の根幹をなしているところが多い。

  

 このツイートのように、格言も多く頂いた。その中の一つに

「オリジナルなんか要らない」

という言葉が残っている。その塾は授業第一主義で、授業のノウハウ、技術、運営、教材開発、どれをとっても超一流だった。その塾に新卒で入ってきた私たちのオリジナルは不要なのである。なぜなら今まで蓄えてきた、その塾のノウハウがあり、それが一定の結果を出すことに成功しているからである。まずは、その成功例を実現するスキルを身につけてからアレンジすれば良いという考え方だ。

 私は授業が下手だったので、言われた通りに再現することに必死だった。もちろん、先輩の授業を真似しても、自分のキャラというのは滲み出てしまうもので、何が自分の武器になり得るのだろうか、と模索しながらとにかくそのまま真似をした。すると、不思議なもので、自分の授業力がどんどん上がっていくのが分かった。うまくいかなくても、上司や先輩にアドバイスをもらい、尻拭いもしてもらった。まぁ端的に言えば、「可愛がってもらった」というやつだ。

 逆に、自分のプライドに固執してしまった同期の中には、なかなか成果が上がらない人もいた。自分が「今までやってきたこと」に囚われると、新しい手法を手に入れることは難しい。

  つまり余計なプライド(オリジナルへのこだわり)は無い方が力を伸ばすことができるだと思う。

教えるのが下手な先生のイラスト(男性・小学校)