職場の同僚から見る今日的な課題「揃えましょう文化」
「職場の同僚から見る今日的な課題」というテーマを大学院の授業で頂いたので、それについて自分の考えを文章で示す。私が一番、課題だと思うのは「揃えましょう文化」である。
「学年で揃えましょう」などの画一的な方法に対しては非常に危機感を覚える。「学級通信を出すのはやめましょう」「掲示物はこれにしましょう」確かに、揃えてしまえば不満は出づらい。「隣のクラスは〇〇なのに…」という苦言を防げるだろう。この揃える文化には大きく2つの問題点があると思う。
1、違いを認められない子が育つ
これだけ「個性が大事」と言われている時代に、教員が個性的でなくてどうするんだ、と思う。同じにしようとすればするほど、違いに敏感になり、受け入れられなくなる。「他所は他所、ウチはウチ」という言葉があるように、本来は違って当たり前なはずなのに。1組の担任と2組の担任は違う価値観を持っている。何を大事にしているかは違うのだから、違いが出て当たり前である。違いを認められない教員は、違いを認められない子どもを育ててしまう。
2、教員の能力が発揮されない
それぞれの教員の能力値は違う。喋りが上手な人、文章が得意な人、ICTが得意な人、掲示物が得意な人、それぞれの得意分野は違うはずなのに、揃えてしまえば、それは発揮されない。このツイートは極端な例だとは思うが、揃える文化の先にはこんな未来しか見えない。
単級で荒れたクラスの話。
— ひねくれ先生😱教職大学院生(現職) (@capocapo3) November 23, 2019
子どもたちに聞くと「授業が面白くない。」とのこと。
それを聞いた先生たちの矛先が前担任に向いたようで「去年、面白い授業をするからだ。」「つまらない授業をしていれば、今年もつまらない授業に耐えれたはずだ。」
という元も子もない話。
揃える文化の弊害。
能力は、発揮されなければ、どんどん衰えていく。力を失っていく。揃えるってことは工夫する余地がないってこと。衰退する未来しかない。そして、無個性で無能な教員集団が出来上がる。初任者はどの先輩から学べば良いのだろうか。
確かに揃えることで、その場はしのげるのかもしれない。クレームも減るかもしれない。でも、そのことが未来にどんな影響を与えるのか、真剣に考えた方がいい。