ひねくれ先生のブログ

30代公立小学校教員(算数が好き)が日々思うことを徒然なるままに書くブログ

金持ち、喫煙者、学校の先生はどれも悪人?

お金持ち=悪人

喫煙者=悪人

学校の先生=悪人

というイメージってなんとなく世の中に蔓延している。

 

お金持ち=悪

 これはキンコン西野さんが言っていたことだけれど

 この国は累進課税という制度があるから、お金持ちであればあるほど税金を納めている。(所得が4000万円以上で45%の所得税)。つまりみんなのためにお金を稼いでいる人がお金持ちの正体である。私たちは感謝こそすれど、お金持ちを批判するのは間違っているのではないだろうか。今度配られる一律10万円の給付金だって、お金持ち様が稼いできてくれたから、配れるわけで。もっと「お金もち」=「善人」というイメージが浸透すれば、世の中のお金もちは増えて、税金をたくさん納める人が増え、日本がより豊かになるはずだ。

 でも実際はなんとなく「お金持ち」=「悪人」というイメージがある。ドラマで出てくるお金もちは必ずと言っていいほど悪人だし(悪代官とか)、ニュースでも「こんな悪いことをしてお金を稼いでいた」とかいっぱい流れてくる。一部のお金もちは悪いことをしてお金儲けをしているのかもしれない、でもそれは一部であってお金持ちが全員悪いわけではない。むしろ大半のお金もちは税金をたくさん納めてくれている感謝すべき人である。

成金のイラスト

 

喫煙者=悪

 昔はみんなたばこを吸ってたはずなのに、いつのまにか「喫煙者=悪」のイメージがついている。たばこを吸える場所はどんどん無くなり、追いやられ、税金だけ上がっていく。「喫煙者からはいくら税金をとっても文句言われないぜ」みたいなノリすら感じる。一箱300円くらいのイメージだったのに、今や490円とか…。これも私たち非喫煙者からしたら、たくさん税金を納めてくれている人たちに分類されるはずだ(しかも自分の健康を害しながら)。みんなが喫煙者になった方が良いとは思わないが、なぜこんなにも喫煙者は非難されるのか。それは一部の喫煙者のマナーの悪さ、副流煙、歩きたばこ等が原因に思う。でも、それは一部の喫煙者であって、全ての喫煙者が周りに迷惑をかけているわけではない。

迷惑な煙草の臭いのイラスト

学校の先生=悪

 以下、同文。

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自尊感情とは何か

自尊感情は大切だ」とあらゆるところで言われるようになったけれど、「成功体験が大事」とか「褒めると良い」とか、「それは違うのでは?」と思う解釈も多いので自分の考えを整理しておく。

 

そもそも自尊感情って…

 私が「自尊感情」という言葉(当時は自己肯定感と言われていた)に出会ったのは今から15年ほど前だったと思う。私はこれを「自分を丸ごと肯定する力」だと考えている。自分の良いところも、悪いところも含めてありのままの自分である。「ダメな自分も自分だ、でも、そこからやっていくしかないよね。」という諦めにも似た境地。

 私が大学生くらいの頃に「自分探し」ってのが流行った。色んな場所(海外とか)に行って、今の自分ではない自分を探しに行くってやつ。当時の私は、今より遥かにひねくれていたので、これが嫌いだった。でも、これをぶった斬ってくれた「百万円と苦虫女」という映画があった。そのセリフがあまりにも秀逸なので紹介する。

百万円貯まったら転々と引越しをして生活をする主人公との会話

「自分探しみたいなことですか?」

「いや、むしろ探したくないんです。探さなくたって嫌でもここにいますから」

 「自分探し」への強烈なアンチテーゼに痺れた。でもそういうことで、「今の自分からガラッと変わるんだ!」という人はただ「自分から逃げているだけ」である。今の自分を受け容れられる力が自尊感情なのだと思う。

 

どうやって自尊感情を高めるか…

「褒める」と「叱る」どちらが自尊感情を高めるでしょうか?

 これは私が大学の時に受けた講義で聞かれた質問である。私は当時は「褒める」だと思っていた。答えは両方とも自尊感情を下げるであった。つまり「褒める」も「叱る」も両方とも価値観の押し付けであって、その価値に見合うことを求められている。この2つは「私の価値観に沿ったあなたを認める」という強烈なメッセージである。つまり「私の価値観に合っていないあなたは認めない」になっていて、「あなたの存在を認める」からは離れてしまうのである。

 当時の私はこれが納得できなくて質問をしに行った。

「あなたのおかげでこれができるようになった」という褒め方は自尊感情をあげませんか?」という質問に対して教授の答えは非常に明快だった。

「それは褒めるではなく感謝です。」

 

また、こんな例もある。

 「のび太結婚前夜」に出てくるしずかちゃんのパパとしずかちゃんの会話。

「パパ! あたし、およめにいくのやめる!!」

「わたしが行っちゃったらパパさびしくなるでしょ。
 これまでずっと甘えたりわがままいったり……
 それなのに私のほうは、パパやママになんにもしてあげられなかった」

 そう言われたパパの返事が素晴らしい

「とんでもない。
 きみはぼくらにすばらしいおくり物を残していってくれるんだよ。
 数えきれないほどのね。
 最初のおくり物はきみがうまれてきてくれたことだ。」

 

 そう、つまり「あなたが生まれてきたこと自体」が素晴らしい。「あなたを丸ごと肯定する」という強烈なメッセージ、これが自尊感情を育む正体だ。だから褒められなくたって、成功体験がなくたって、そんな自分を受け容れてくれる存在があるかどうか。これが自尊感情を高めるたった一つの方法だと思う。

 

最後に熊木杏里さんの「誕生日」という曲を紹介して終わる。

 

理由は何もないんだよ

あなたという人がいることでいいんだよ

 

※「自尊感情」「自己肯定感」「自己有用感」どれも同義として扱った。

 

 

学級懇談会で使える話

人は耳から入る情報だけでは、ほとんど脳に残りません。ですから「何度言ったら分かるの⁉︎」は意味がありません。何度言っても脳には5%しか残らないのですから。ポイントはアウトプットさせることです。ぜひ、お家での会話に「今日の授業は何を勉強したの?教えて」を取り入れてみて下さい。

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よく「うちの子は教えてもらってばっかりで、申し訳ない。」というお家の方が居ますが、決してそんなことはありません。「教える」という行為が、学力を高めることは実証されています。教える方も教えられる方にも両方にメリットがあるのです。

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脳は否定形を理解できません。ですから子どもに伝える時は、なるべく肯定形で伝えるべきです。

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これは、ピグマリオン効果にもつながります。「期待をかけると、その通りに子どもが育つ」という効果です。「こう育って欲しい」という肯定的で温かいメッセージをお子さんに送ってあげてください。

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ちなみに個人的な考えですが、ピグマリオン効果は大人にも通じると思っています。ですので、今日お家に帰ったら「先生、面白い人やね。良い人やね。」と褒めちぎってもらえると、良い期待に応えようと私も頑張れます。よろしくお願いします。

 

※以前、学級懇談会で使っていた話です。ラーニングピラミッドは信憑性に疑いがあるそうですので、ご注意ください。

AIに負けない子どもを育てる

「AIに負けない子どもを育てる」を読んだので、その中身に対する自分の考えを書く。

 

ロボットは東大に入れるかプロジェクト

MARCHレベルまでは入れるが、東大に合格できる見込みはない。「図」がネック

  MARCHまで入れるって、もう単純にすごい。偏差値でいうと55〜65らしいので、日本人の平均的な点数より高いってこと。「テストの点数を取る」という価値が年々下がってきているのかもしれない。キングコングの西野さんがYoutubeで言っていたけれど、「偏差値やテストの点数を取れる人は努力できる人」でそれ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。

 それと同時に「図」や「イラスト」に秘められた情報量に驚く。そこまで進んだAIでネックになっているのがそこなのか。確かに私たちは小さい頃から視覚的情報から多くのインプットを得ている。そこには、「論理」というより「感覚」が重視されることも多いのかもしれない。この視覚的情報のインプット(もしくはアウトプット)が人間がAIに勝てる要素の一つだとすれば、そこに大きな可能性を感じた。板書をもっと磨かねば。

 

RST(リーディングスキルテスト)という名の読解力を測るテスト

 昔から、国語のテストには違和感を感じていた。文学作品を読んで「筆者が言いたいことは何か」というのは無理がある。言いたいことが、言葉でストレートに表現できないから「文学」という形で表現しているはずなのに…。これで読解力なんて分かるの?というのは常々思っていたので、新井さんが提唱するRSTには賛同しかない。実際に解いてみたけれど、これは納得の問題内容だった。もういっそのこと、国語の試験はRSTで良いんじゃないか、とさえ思ってしまった。

 

 診断として使われるテストの練習をしないでください

 最近思うのが、テストの点数と学力は相関関係にあるのだろうかという問題。テスト前に類代を繰り返し解いてパターンかすれば、テストの点数は上がる。でも、それって学力が上がっているのだろうか。RSTでもドリル問題を作り練習する自治体や学校が表れたいう。それでは正しく診断ができない。つまり正しく読解力が測れないのである。

 

RSTを毎日ドリルで練習すると、却って読解力は下がる

人間のように賢い動物は同じようなことを何度も練習させられると、楽だけれども非本質的な解き方を会得する

 人間は本能的にサボるって話。これってRSTだけでなく、他のドリルもそうなのではないだろうか…と考えて怖くなった。我々、教員が毎日毎日、一生懸命に取り組ませている「ドリル」。どこまで価値があるのだろうか、むしろ却ってマイナス効果も生んでいるのだとしたら?一度、宿題や演習問題に関して見直すべきなのかもしれない。「練習すればするほどテストの点数が上がる」という事実の先にあるものを見るべきなのだろう。

 

日本はアクティブラーニング先進国

特に小学校は世界一生徒の意見を聞き、グループ学習をすることで知られている

日本の「研究授業」が世界から注目を集めている

  ひょっとしたらそうなんじゃない?と思っていたところをはっきり書いてくれたのですっきりした。日本の授業って捨てたものじゃないと思っている。特に、全国算数授業研究会の先生たちの授業は抜群に良い。私たちが受けていた授業とは全然違う。学校批判をする方達は、一度、この先生たちの授業を見てから言って欲しい。ほんと。一方で、教科書の内容を一方通行で教え込んでいる授業があるのも一つの事実。良いものは良い、悪いものは悪いと言える教育界であって欲しい。

 

プリント・ワークシートの多用がかえって生徒の学力に悪影響を与えている

  以前、このようなツイートをして結構共感してもらえたのだが、本当にそう思う。

 

プリントを作りすぎたり、ドリルをさせすぎたりした結果、小学校は『見せかけの成績』が上がる一方、伸びしろが小さくなってしまっているのではありませんか。

 中学生の成績が伸びない原因は中学校にあるのではなく、小学校にあるのではないかという話。もうよくぞ言ってくれました。ガツーンとハンマーで殴られたイメージで。『見せかけの成績』になってしまっている現実は少なからずあるはず。結果、中学校で学力が伸びない。だから、「テストの点数」や「成績」という結果を追い求めすぎる風潮には賛成できない。非認知能力という言葉があるように、「点数」で測れない力の方が本質的なのかもしれない。RSTはRSTで素晴らしい試みだと思っていますが。

 

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4年生 1億より大きい数を調べよう

  • 問、0〜9までの数字カードがあります。
  •   これを並び替えて日本の人口に一番近い数字にしましょう。

 

C1:「このカード、全部使わないとダメなの?」

 T:「使わなくてもいいよ。使いたくないの?」

C1:「だって、1枚多いよ」

 T:「え?なんでそう思ったの」

C1:「だって日本の人口って1億なん人でしょ?」

 T:「ちょっと待って、そうなの?」

C2:「そうだ、聞いたことがある。」

めあて①「1億は数字をいくつ並べたら良いの?」

C1:「だから、数字カードは9枚あればいい」

 T:「ちょっと待って、C1さんが言っていること分かる人いる?」

C3:「えっと、一十百千万十万百万千万一億だから」

 T:「今、C3さんが言ったことをノートに書いてみよう」

 

桁を確認(省略)

まとめ①「1億0000万0000だから9個」

 

 T:「みんなの言っていることは分かった。9枚のカードを使うのね。よし、ではノートに日本の人口を予想して並び替えた数字を書いてごらん。」

 T:「では、答えを発表します。日本の人口は1億2744万3563人でした!(平成31年1月1日のデータ)」

 T:「ちょっと遠かったなぁという人?」

C4:「154329067」

 T:「それは遠いね。一番遠いんじゃない?」

C5:「いや、私の方が遠い。179380425だもの」

 T:「え?そうかな?みんなもそう思うの?じゃあどうしてC5さんの方が遠いのかノートに理由を書いてみて。」

 

めあて②「大きさはどこを見たら比べられるの?」

 

(中略)

まとめ②「同じ桁同士を見て比べる(大きい桁から)」

 

T:「では一番近いのはC6さんの124953608人だね。これよりもっと近い数字が思いつく人いる?」

 

(後略)

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※「この授業、面白い教材ある?」をtwitterのDMで募集しています。DMを頂ければ、この授業のように考えさせていただきます。お気軽にDMください。

まとめとは何か

 「めあてとは何か」が割と好評だったので、「まとめとは何か」も真面目に書いてみたいと思う。「めあて」と同じように「まとめ」も形骸化している現状があるように思う。こんな誤解が学校現場には蔓延している。

 

誤解1

 まとめは最後にしないといけない

誤解2

 まとめは教員が正しい言葉で書かないといけない

誤解3

 まとめは一つじゃないといけない

 

まとめとは何か

 では、まとめとは何だろう。よく言われるのが、「『めあて』と『まとめ』の整合性があるのが良い。」と言われる。私もそれには賛成なのだけれど、「整合性のあるまとめ」とは何だろうか。以前のブログで「めあて」とは「問い」であると書いた。

capocapo3.hatenablog.com

 めあてが「問い」であるならば、まとめはその問いに対する「答え」である。 

めあて『2けた+2けたの計算ってどうやるの?』(問い)

まとめ『10の位は10の位同士、1の位は1の位同士で計算すれば良い』(答え)

そう考えると、まとめは授業の最後にあるとは限らない。子どもの問い(めあて)が解決された瞬間が、まとめを書く時間になる。それも、先生が「こう書きましょう」と書かせる必要はなく、解決されたな、と思ったタイミングで「2けた+2けたの計算ってどうやるかノートに書いてごらん。」と言えば、子どもたちの理解度もはかれる。

※定義等の知識伝達は別

「めあて」→「まとめ」のサイクルを回す

 そして「めあて」も「まとめ」も1つとは限らない。先ほどの課題であれば、『10の位は10の位同士、1の位は1の位同士で計算すれば良い』とまとめた後に、当然「じゃあ繰り上がりがあったらどう計算するの?」と問いが生まれる。これがそのまま次の「めあて」になるのだ。この「めあて」が出た時点で、時間があればこの「めあて」を探究すれば良いし、時間がなければ次回にまわしても良い。こうやって「めあて」→「まとめ」のサイクルを回していく。

 

「めあて」を「問い」と考えると「まとめ」も考えやすい

 子どものつぶやきを大切に授業を進めると「めあて(問い)」が自然と生まれる。そして、その「めあて(問い)」をみんなで解決していけば、まとめも生まれる。授業は問い→探究→答えの繰り返しである。

 

 

 

できる<分かる<楽しい

 とかく大人たちは「できる」を優先させてしまいがちである。これは教員とて例外ではない。むしろ教員が加速させているのかもしれない。ついカラーテスト(業者作成のテスト)の点数を取らせようと躍起になる。しかし、カラーテストの点数を上げるのは、そんなに難しいことではない。「分かる」必要はないからだ。

 

カラーテストの点数を取る方法

①問題文を読まなくたってタイトルを見れば「何算」を使うか分かる。

②同じような問題を反復練習すれば、意味など分からなくてもできる。

 

 このような方法で点数を取ることにどれだけの意味があるのだろう?「点数を取ることでプライドが保たれる」「点数が低いと勉強が嫌いになる」こんな反論をいただくこともあるのだけれど、結局それらは「点数至上主義」の大人が作り出した価値観であり、本来のテストの意味からはほど遠い。(本来のテストは、自分は「何ができていないか」を確認するチェック機能である。)

 

 ちなみにそうやって小学校で誤魔化し誤魔化しで高いテストの点数を取った結果、中学校の壁にぶち当たる。そして、その壁を乗り越えていくだけの力は点数至上主義の中では育たない。「分かる」かどうかより「できる」を優先させてきたツケである。ただ、そんな人たちも一つだけ壁を乗り越える可能性がある。「暗記」だ。気合と根性でカバーすれば、なんとかなるかもしれない。こうやって気合と根性論で日本が作られてきた。

 

 そうして、気合と根性で「暗記能力」を身に付けた社会人は今の世の中に必要とされるのだろうか…。

 

 私は「できる」より「分かる」に重きを置きたい。数値で表現されにくい、結果がわかりにくいため、重要視されてこなかった「分かる」。例えば、「等分除」「包含除」の違いについて。これが分からなくても小3のテストで点数が取れる。でも、分からないまま高学年になるから、「4÷0.5」の意味が分からなくパニックになる。「え?4つのものを0.5人で分けるって意味が分からない」と。包含除の意味が分かっていれば「4の中に0.5がいくつあるか」だと分かるのに。

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 もっと言うと、「分かる」より「楽しい」を優先させたい。私は授業で「学ぶ楽しさ」を最優先にしている。なぜなら、それさえあれば後はどうとでもなると考えているからだ。「学ぶ楽しさ」は全てを超越する。それを知った子は、「分かる」ようにもなるし「できる」ようにもなる。でも、残念ながら「できる」子が「分かる」とは限らないし、「楽しい」かと問われるとさらに難しい。「勉強はつまらないもの」と言う価値観が浸透してしまっているのは、「できる」至上主義だったからだと考える。

 

⭕️「楽しい」→「分かる」→「できる」

❌「できる」→「分かる」→「楽しい」