ノーベル化学賞受賞の野依博士のインタビューから
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問題は、学びが消極的な点。積極的に定説に対して疑問を投げ掛けたりすることがない。教科書などに書いてあったら、「ああ、それはそうですね」で済ませ、自分で考え「そうじゃないんじゃないか」と、工夫して挑戦しないのですね。
消極的な学びになってしまうのは、教師が与えすぎてきたから。「答えを出させよう」とするあまりに、丁寧に問題解決までの道のりを与えたり、ヒントを与えたり。「自分から生み出す」ことを子どもがする前に教師が喋っちゃう、これで学びに能動的になるわけがない。また、「できる」に価値を置かれてしまったために、反復練習を強制させられ、勉強することの価値を見失ってしまった。学ぶことは本来、楽しさに満ち溢れているはずなのに。「楽しさ」がないところには、積極性や創意工夫は生まれない。
今の大きな問題は、好奇心を持って自ら問う力、考える力、答える力。これらが落ちているということ。なぜそうなるのかというと、社会全体を覆う効率主義、成果主義のせい。しかも実は本当の成果を求めていない、形だけの評価制度は許せない。評価は本来、人や物の価値を高めるためにあるのですが、そうなっていない。
評価が目的になってしまっている現状。本来は目的を達成するための評価であるはずなのに。自分がどの程度、達成できているかをテストで分析し、そこから何をすればいいのかを考える。本来は、テストは現在地を知りそこからの道筋を考えるものなのに、テストがゴールになってしまっている。
最も心配なのは「問う力」がほとんどないこと。誰かに作ってもらった問題に答える習慣が染み付いている。幼い子供たちは好奇心を持つが、学校教育が疑いを持つことを許さないのではないか。発展につながるいい問題を作るのは、与えられた問題にいい答えを出すよりも、ずっと難しいのです。平凡な既成の問題に答えてもまったく意味を成さないはずで、なぜこんなことが分からないのか。
もはや問題解決能力は必要とされなくなってきている。なぜなら、答えを出すのはAIがしてくれるから。今、必要とされてきているのは「問題を見つける力」。「教師が問題を与え、子どもが答えを出す」ことの価値はどんどん薄まっている。答えを出そうとする過程に価値はあるけれど、答えを出すことに価値はほとんどない。疑問を出すことの価値は年々、高まっているように感じる。
「社会総がかり」で教育に取り組まないといけない。その意味で日本は“教育貧困国”なのです。学校だけに任せては駄目です。学校教育だけでなく、家庭、近所、地域、さらに産業界、あらゆるセクターの組織、あるいは人々が教育を支えるという気持ちにならないといけない。そして教える側自身も、そこから多くを学ぶ。
予算という視点からも「教育最貧国」と言えよう。子どもは社会の宝である。未来を担う子どもたちに、時間もお金もかけなくてどうするんだ。学校だけに任せてきた現実がコロナで一層、浮き彫りになった。確かに学校批判はよく聞くけれど、「では学校以外で何ができるか考えましょう」の視点は少ないのかもしれない。
世界が多様性の尊重に向かう中で、日本はなぜ、画一性にこだわるのか。
それは、今までの教育が画一的だったから。画一的な教育からは画一的な国民しか生まれない。「揃えましょう」の文化からの脱却を願う。
「学年で揃えましょう」などの画一的な方法に対しては非常に危機感を覚える。確かに、揃えてしまえば不満は出づらい。しかし、この揃える文化には大きく2つの問題点があると思う。
— ひねくれ@教職大学院生(現職) (@capocapo3) April 24, 2020
職場の同僚から見る今日的な課題「揃えましょう文化」 - ひね…https://t.co/GY9a5AOurO
学校の先生に全部任されてもね。「親の顔が見たい」という言葉がありますが、家庭でしつけのできていない子供たちを教育できませんよ。学校教育はもちろん大事で、教育の中核を成すものだと思いますが、あくまで教科が中心でしょう。現代、そして将来の社会を支える人をつくる、そして、その個人が幸せに生きるということを、社会全体で考えない限り駄目です。
授業のことだけ考えたい。授業のことを考えている時が一番、楽しい。